株式会社 はんだやは本郷三丁目(春日通りを池之端方面に向かい右手の9階建てのシンプルなビル)にあります。
この辺りには医学関係の会社が多く存在しますが、その理由は日本の近代医学の発祥が東大である事に起因しています。
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明治16年 (1883)
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水戸藩士であった山口兼蔵は廃藩の後、次男 徳次郎(※)を伴い横浜に行き時計商を営みましたが、本郷の現在地にて医学出版業を開業します。これが前身である半田屋醫籍商店となります。
社名には山口・半田の二重姓(※)から山口を残した事から、「半田」を屋号としたと言われております。
※初代社長:慶応2年生まれ 当時18歳
※菩提寺 西光寺(墨田区)住職によると、山口次郎左衛門が半田性を名乗っており、当時は二重姓を使用していたとの事。
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写真(左):明治42年 半田屋醫籍商店発行「近世トラホーム全書」 校閲:河本重次郎 著:中村辰之助・早野龍三
写真(右):明治32年 半田屋醫籍商店 発行「實用産科學」著:濱田玄達・佐藤勤也
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明治22年頃 (1889)
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ドイツで眼科を学び帰国した帝大(現 東京大学)河本重次郎教授が日本に満足な医療機器がない為、出入り業者を呼び作成を依頼した際に、手を上げたのが医学出版をしていた徳次郎。これが日本の眼科医療機器製作の始まりとされております。
製作は仕事が少なくなっていた友人の刀鍛冶・かんざし職人・馬の蹄鉄職人(金属装飾)に話を持ちかけ、それぞれメス・ピンセット・板金を担当・作成いたしました。
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写真(左):半田屋「二號眼科器」:横須賀市トクダ眼科医院 様 御所有
写真(中):半田屋:「顕微鏡」
写真(右):明治38年 半田屋醫籍商店発行「醫療器械図鑑」 |
明治43年頃 (1910)
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石原忍先生(後に東京大学教授)が心血を注いで研究していた色覚検査表「色神検査表」を大正5年(1916)に創案・出版。当時の研究・出版にはお金がかかり、引き受け手が見つからなかったところ、医学の近代化・進歩に力を注いでいた徳次郎が手を上げたとの事です。
「色覚表」は、石原先生が勘に基づき色紙を貼り合わせて作成したのが基となっていますが、正常視覚者には読めず、色覚異常の人のみが読めると言う特長を持ち、その必要性・優秀性により世界的な定評となり、現在も健康診断・運転免許・病院など様々な方面で活用されています。
※ 石原 忍博士は昭和38年に没しましたが、門下生達による「公益財団法人 一新会」により管理しています。http://issinkai.umin.ne.jp/
※ 当時、徳次郎は野口英世氏にも研究費を提供しています。その借用書は遺族の手を通し慶応大学に収められています。
※ 半田屋醫籍商店は、大正時代・昭和初期にかけて、半田屋書店、半田屋(出版部・書籍部・醫療器械部)、昭和中期から半田屋商店へと名称変更しております。
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写真:大正5年(初版)半田屋書店発行「日本色盲検査表」石原忍 考案
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昭和44年頃 (1969)
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東京大学 三島済一先生(後に東京大学教授)と、「比較的安価に供給できる国産品かつ外国の模倣ではないオリジナルな手術器具の製作」と言うテーマの下、研究開発に携わり、microsurgery用手術器具として、「三島式」の鑷子(角膜・有鈎・無鈎・ユーティリティー)・剪刀(角膜・マイクロ)・スパーテル・持針器・開瞼器をリリース。
※ 三島式は現在でも全国の医療施設にて幅広く活用されています。
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写真:初期 三島式鑷子図面 |
以来、全国の大学・眼科医・ORT・・・他の皆様の御協力を頂き、検査器具・器械から手術器具まで眼科特有の製品を幅広く開発・製造を行っております。
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昭和23年頃の半田屋商店
昭和初期から昭和46年まで文京区には路面電車が走っていました
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参考文献
・産経新聞 老舗風土記 1457〜1460 (平成7年3月7日〜10日)
・三島済一「試作したMicrosurgery用手術器具とその使用法について」:(昭和48年3月10日 桑原教授退職記念論文より) |